〔余談〕「お客様は神様」をはき違える人にはあるべき感謝の気持ちがない
商売人と言うのは、「お客様は神様」という理念を掲げて商売をしているものです。商売と言うのは「客」がいなければ成り立たないのは当然です。しかし、その「客」が、何を勘違いしているのか「お客様は神様」だといってやりたい放題やって、商売人は頭を抱えます。
なぜこのようなことになってしまうでしょう。「お客様は神様」という語源に触れながら考えてみたいと思います。
それまでは、自分の欲しいものと相手の欲しいものを交換する、物々交換で物は人々を巡っていました。これは「等価交換」に近しいものです。
例えば肉はあるが野菜がない、野菜はあるが肉がないという対照的な二人がいたとします。互いにないものが欲しくなっても手に入れられない場合、それらを交換しようという発想が生まれます。互いにないものを交換し合うという点で「等価交換」です。
また、この場合は肉をあげる代わりに野菜をもらうので、肉の対価は野菜という事になります。
物々交換は誰かが何も持っていないのであれば成立しません。何も持っていない人にものをあげるというのは、「施し」と全く同じです。
そして、仕入れと物流を担う問屋と言う商売が生まれ現在に至るのです。
こうして、商売はお金と言う対価を得る為の仕事となってきたのですが、「お客様は神様」という発想はどこから生まれたのでしょうか。
三波春夫オフィシャルサイトから引用します。
引用終わり。
このように演者にとっての客が神様であるとして、商売には一切関係がありません。
間違ってもサービスと言うは、値引きするとか、無料だとかそう言うものではなく、れっきとした商品としてのサービスを言います。サービスというは、形を持たない商品を指します。例えば、マッサージや理髪、ステージで披露する歌や劇などです。
なので、彼も商売人であることには間違いないのです。
商売の形態と言うのは様々ですが、基本的には商売人が店舗を構えてそこに「客」が足を運ぶものです。つい最近もそうですが、訪問販売はほとんど詐欺かそれに近しいです。筆者自身まともな訪問販売に出会ったことはありません。
それはともかく、商売人が店舗を構えてそこに客が足を運ぶ、そして、対価を払って買ってくれる、これが商売人の儲けになる為、大切にしなければならないという発想を呼ぶわけですね。
この発想が、三波春夫に倣うように「お客様は神様」となったわけです。
例えば、ブランド系、大衆系です。そもそも、ベンダー都合よりメーカー都合でブランド系の取り扱いができるかどうか怪しい面がありますが、それでもどちらのコーナー、あるいは店舗が多いかという事です。
行きつけの店舗にブランド品を求めても、求めるのが一人だけなのならば売り上げになりませんので置いてありません。商品の仕入れは基本的にロット(一定数以上の)仕入れが必要になり、1人の為に1つを仕入れることはできません。大体の場合、取引がないので取り寄せもできませんので求めても売ってもらえません。
この場合はないものねだりですので当然の事です。
あるものを売らない選択肢も商売人にはあります。形やできが悪ければ売らないという選択肢があるのは当然です。また、客を選んで売ることも可能です。これは彼らの当然の権利です。よくある出入り禁止や、査定がこれに当たります。
お金をくれるといっても、それは商品を提供しているからなので、本来であれば立場は対等なのです。
買い物は気持ちよくしたい人たちがいるのは確かです。なら、彼らは少し高かろうと愛想のいい商売人から買います。愛想の悪い商売人の売る少し安い商品と同じ価格まで下げればそちらに殺到するのは間違いのないことです。
売り手に感謝しない人たちは、売り手がいなくなったらどうするつもりなのでしょうか。生産者から直接買う?売ってもらえるとでも?
ありえないから考えなくていいことか、というとそうなのですが、ただ、100%ありえないかと言えばそうではありません。特定の人を出入り禁止にできる以上、1度店舗でそうなれば、他の店舗でも出入り禁止になる可能性は高いですから、自分にだけ売ってくれる人がいなくなるのは十分あり得ます。
スーパーやコンビニのレジに並んでいれば分かります。「ありがとう」すらいえない人たちの多いこと。一度耳を澄ませてみるとよいでしょう。
海外では、提供された商品に支払う対価以外に、同時に提供されたサービスに対価を支払います。これがチップです。丁寧にしてもらえたことや、楽しい時間を過ごせたことに対する感謝をお金で表します。
丁寧にする事や楽しい時間を過ごしてもらう事が、日本では当たり前の事になっています。それが「おもてなし」の精神でもあるのですが、危惧すべきことでもあります。必要以上に客を持ち上げると、自尊心の更なる肥大化を招きかねないからです。
ただ、チップと言う対価をもらうことなく商品とともにサービスを提供すること自体は、素晴らしいことであるのは間違いありません。続けていくべきでしょう。
これ以上、客の自尊心の肥大化を防ぐためにも、撮るべきときに毅然とした態度をとること、強く出ることが必要になるはずです。
それともお金が無くなればいいのでしょうか。物々交換の元となるものを持っているのでしょうか。
提供してもらっているんだという意識を持ちましょう。彼らがいなければ生活は成り立たないはずです。その意識があれば「お客様は神様だろ」なんて言えないはずです。
良い商品とともに、良いサービスを提供する店には大目にお金を払いたいと思いますからね。
なぜこのようなことになってしまうでしょう。「お客様は神様」という語源に触れながら考えてみたいと思います。
商売人と客
商売人にとって、自分が提供する品物やサービスを買ってくれる「客」と言う存在は神様に等しいのですが、それはなぜでしょうか。対価という考え方
商売と言うのは、お金と言う概念ができたから発生した概念です。それまでは、自分の欲しいものと相手の欲しいものを交換する、物々交換で物は人々を巡っていました。これは「等価交換」に近しいものです。
例えば肉はあるが野菜がない、野菜はあるが肉がないという対照的な二人がいたとします。互いにないものが欲しくなっても手に入れられない場合、それらを交換しようという発想が生まれます。互いにないものを交換し合うという点で「等価交換」です。
また、この場合は肉をあげる代わりに野菜をもらうので、肉の対価は野菜という事になります。
物々交換は誰かが何も持っていないのであれば成立しません。何も持っていない人にものをあげるというのは、「施し」と全く同じです。
対価は商売へ
そして、お金という概念が生まれると、お金が物の対価となります。例えば、狩人が動物を狩って肉売りお金を得る、これも立派な商売です。そして、仕入れと物流を担う問屋と言う商売が生まれ現在に至るのです。
こうして、商売はお金と言う対価を得る為の仕事となってきたのですが、「お客様は神様」という発想はどこから生まれたのでしょうか。
本当は違う「お客様は神様」
「お客様は神様」と言うのは演歌歌手三波春夫に端を発する言葉です。三波春夫オフィシャルサイトから引用します。
『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』
三波春夫オフィシャルサイト,(最終閲覧日:2017年1月26日)
引用終わり。
このように演者にとっての客が神様であるとして、商売には一切関係がありません。
一応彼も商売人
確かに彼は演者としてパフォーマンスをサービスとして提供し、客はそれ見る為に対価としてお金を払っています。間違ってもサービスと言うは、値引きするとか、無料だとかそう言うものではなく、れっきとした商品としてのサービスを言います。サービスというは、形を持たない商品を指します。例えば、マッサージや理髪、ステージで披露する歌や劇などです。
なので、彼も商売人であることには間違いないのです。
商売人の「お客様は神様」とは
単に対価を支払ってくれるから、という訳ではありません。そう思った人はすでに勘違いしている人とあまり変わりません。なぜ「お客様は神様」が浸透した?
商売人が提供する品物やサービスをわざわざ足を運んで対価を払って買ってくれるからと言うのが正しいでしょう。商売の形態と言うのは様々ですが、基本的には商売人が店舗を構えてそこに「客」が足を運ぶものです。つい最近もそうですが、訪問販売はほとんど詐欺かそれに近しいです。筆者自身まともな訪問販売に出会ったことはありません。
それはともかく、商売人が店舗を構えてそこに客が足を運ぶ、そして、対価を払って買ってくれる、これが商売人の儲けになる為、大切にしなければならないという発想を呼ぶわけですね。
この発想が、三波春夫に倣うように「お客様は神様」となったわけです。
本当に「お客様は神様」なのか
答えはNOです。根本的に、人間が神様になることはありえません。本来商売とは
本来の商売は、商売人と客は対等な立場にあるのです。- 商品を提供する。
- 商品に対価を支払う。
例えば、ブランド系、大衆系です。そもそも、ベンダー都合よりメーカー都合でブランド系の取り扱いができるかどうか怪しい面がありますが、それでもどちらのコーナー、あるいは店舗が多いかという事です。
行きつけの店舗にブランド品を求めても、求めるのが一人だけなのならば売り上げになりませんので置いてありません。商品の仕入れは基本的にロット(一定数以上の)仕入れが必要になり、1人の為に1つを仕入れることはできません。大体の場合、取引がないので取り寄せもできませんので求めても売ってもらえません。
この場合はないものねだりですので当然の事です。
あるものを売らない選択肢も商売人にはあります。形やできが悪ければ売らないという選択肢があるのは当然です。また、客を選んで売ることも可能です。これは彼らの当然の権利です。よくある出入り禁止や、査定がこれに当たります。
お金をくれるといっても、それは商品を提供しているからなので、本来であれば立場は対等なのです。
なぜ商売人は下手に出るのか
商品を買ってもらえないと商売にならないからに他なりません。そして客の流す噂、口コミが怖いからです。愛想の悪い商売人の売る少し安い商品と愛想のいい商売人が売る少し高い商品、どちらを買うのかという事です。買い物は気持ちよくしたい人たちがいるのは確かです。なら、彼らは少し高かろうと愛想のいい商売人から買います。愛想の悪い商売人の売る少し安い商品と同じ価格まで下げればそちらに殺到するのは間違いのないことです。
下手に出た末路
それが今の日本の所謂クレーマーです。客側の自尊心の肥大化と言っていいでしょう。そしてそこには本来ならあるべきものがありません。客の品位と品格
商売人が下手に出続けた結果、客側の自尊心が肥大化し、客の品位と品格を大きく落としました。売り手に感謝をしているか
少ないでしょう。肥大化した自尊心で感謝できるわけがありません。「ありがとう」と言えばそれで済むわけもありません。売り手に感謝しない人たちは、売り手がいなくなったらどうするつもりなのでしょうか。生産者から直接買う?売ってもらえるとでも?
ありえないから考えなくていいことか、というとそうなのですが、ただ、100%ありえないかと言えばそうではありません。特定の人を出入り禁止にできる以上、1度店舗でそうなれば、他の店舗でも出入り禁止になる可能性は高いですから、自分にだけ売ってくれる人がいなくなるのは十分あり得ます。
スーパーやコンビニのレジに並んでいれば分かります。「ありがとう」すらいえない人たちの多いこと。一度耳を澄ませてみるとよいでしょう。
チップと言う文化
お金を支払うというのはあくまでも提供された商品に対する対価を支払っているにすぎません。それは海外では結構厳格です。それがチップと言う文化が表しています。日本にはチップと言う文化はありません。海外では、提供された商品に支払う対価以外に、同時に提供されたサービスに対価を支払います。これがチップです。丁寧にしてもらえたことや、楽しい時間を過ごせたことに対する感謝をお金で表します。
丁寧にする事や楽しい時間を過ごしてもらう事が、日本では当たり前の事になっています。それが「おもてなし」の精神でもあるのですが、危惧すべきことでもあります。必要以上に客を持ち上げると、自尊心の更なる肥大化を招きかねないからです。
ただ、チップと言う対価をもらうことなく商品とともにサービスを提供すること自体は、素晴らしいことであるのは間違いありません。続けていくべきでしょう。
これ以上、客の自尊心の肥大化を防ぐためにも、撮るべきときに毅然とした態度をとること、強く出ることが必要になるはずです。
客が「お客様は神様」を口にしない
寧ろ商売人を神様と思いましょう。彼らがいなければ、生産者でもなければ、生活はできないはずですがどうでしょうか。いくらお金があろうが、売る人がいないので何も手に入りませんよね?それともお金が無くなればいいのでしょうか。物々交換の元となるものを持っているのでしょうか。
提供してもらっているんだという意識を持ちましょう。彼らがいなければ生活は成り立たないはずです。その意識があれば「お客様は神様だろ」なんて言えないはずです。
最後に
チップと言う文化が浸透するといいのになぁ、と最近思います。すると思い上がった客はぐっと減るはずです。良い商品とともに、良いサービスを提供する店には大目にお金を払いたいと思いますからね。
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